2013年07月06日

晩熟実感

 7月2日(火)の私の履歴書の記事を見て、自分が晩熟であることを改めて実感した。囲碁棋士、名誉碁聖の大竹英夫さんの3歳頃の記憶と比べての話である。氏は、昭和17年5月生まれで、私とはたった1月の先輩ということになるが、終戦の1週間前の8月8日の記憶を鮮明にお持ちであるのだ。

 元々、凡夫の私と名誉碁聖のような逸材を比べること自体比較にならないのかもしれないが、私は3歳頃の記憶は何もない。母に抱かれて防空壕に入っている時に、私が良く泣くものだから、周りの方からよく小言を言われたという話は母から何度も聞いたが、私にはその頃の記憶は何一つない。私の一番古い記憶は、ガラス製のランプを玄関ホールから土間に投げつけ、それが見事に割れたことだ。それが何歳のころのことであったかも分からない。ほかの幼少時の記憶は、母の実家によく行ったのだが、その中間地点に、水源と呼ばれる場所があり、小規模なダム施設の側溝の蓋のような橋を渡って行ったときの冒険心をくすぐられた記憶しか思い付かない。

 当時長男で一人息子の私と、7人兄弟の4人目の次男の名誉碁聖とは環境も随分違っていたのかもしれないが、幼少にして既に落差が大き過ぎる。

 名誉碁聖は、当日、兄や姉と公園で遊んでいたという。空襲警報が鳴ったので、防空壕に逃げ込み、食べ物も飲み物もない中、じっとしていたという。よほど怖かったのか、自分では暗い所に丸一日くらいいたような気がしていたが、後で兄に聞いたところでは、そんなに長い時間ではなかったらしい、と書かれている。この当りの記憶は何となく覚えているそうで、帰りに、近所のおばさんが「おなかすいたろう」と言って、ふかし芋を差し出してくれたときのことは、はっきり覚えているそうだ。

 幼いころだけでなく、私は未だに熟れていない。悟りには程遠いし、気持ちだけは若い。そして、筋の通らないことは中々許せない。

 幸い、今のところ健康であるので、このまま全てが遅れたまま齢を取り、ピンピンコロリンと終りたいものだと思っている。

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2013年01月12日

宗教行事続き

 本日は、亡母の2番目の弟の3回忌であった。亡母は、男女半々の8人兄弟・姉妹の最年長の長女であったが、一昨年の1月に亡くなったこの叔父は、私が小さい頃から一番親しみを持っていた叔父で、色々可愛がってもらった。就職後も、業務上のアドバイスをもらったり、ゴルフ等にも誘われ大変世話になった人である。本人は、役場に勤めていた若い頃、地元の米屋さんのおばあさんに見込まれ、養子にいった経歴の持ち主ですが、このおばあさんの見込みどおり、持ち前の才覚と努力で、一代で事業拡大に成功し、莫大な資産と、事業を築き上げています。本来、私は家を継いでいないので、このような行事には呼んでもらえなくても当り前ですが、私は母方の家系では、長女の長男ということで、叔父叔母達と一番歳が近く、私は従兄弟同士より、叔父叔母との交際の方が頻繁であったので、本人とのお付き合いを考慮し呼んでいただいたと感謝している。

 広大な敷地に、大きな家の2軒分もあろうかという自宅で70名ほどの法要を営み、近くの料亭で食事を頂いてきたが、会場で周りを見渡し、長女の長男であるが故の、叔父達に感化を受けた恵まれた一面を改めて自覚した。戦死した亡父は、4人兄弟の3男であったので、父方の自分の立ち位置と比べるとこれが明らかになる。

 この叔父の事業は、多角化し、部門によっては大企業に位置づけられてしまうほどになっているが、昨年は、跡を継いでいる長男の社長から、就業規則等の全面改正を委託され、既に納品させていただいている。顧問契約についても、近い将来は当事務所に回していただける見込みである。現在の顧問事務所が、何期も県会の会長をされ、名誉会長も2期もされている人格者の事務所であるが、ご本人は昨年お亡くなりになり、先に息子さんもお亡くなりになっていたので、そのお嫁さんが資格を取り跡を継いでいると叔父からは聴いていた事務所で、俄かに変更とは行かないようである。

 2週間後には、亡母の4番目の弟の養子先の法要で、月末31日は、亡母の100か日である。こうした宗教行事が続くと、自然と親戚との付き合いが深まるのだが、改めて反省してみると、矢張り、私は、叔母達よりも、同性の叔父達から大きな感化を受けていると思う。一番下の叔母は、素晴らしい運動神経の持ち主で、高校時代の平均台のイメージは今でも私の脳裏に鮮明に残っているし、トヨタ自動車にソフトボールの選手として引っ張られ、ピッチャーで4番を打ち、暫くして、当時最強であった、倉紡を打ち負かすほどにチームを育てた原動力になっているが、私が感化を受けているのはそのご主人からである。

 このご主人は、当時約2万5千人の従業員中、公認会計士の3次試験に社内で初めて合格した人で、私が高校生の頃から感化を受けている。高校時代には、英語の勘どころを教わり、就職後は、大番頭、石田退三に仕えた経験等を直に耳にした。また、あるべき姿勢や苦労話も非常に参考になっている。これは偶然だが、この人が始めて取締役に就任したときに、母方の親戚でお祝い会を開いたが、その場所が、本日の料亭であり、その幹事が私であった。
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2012年10月21日

母の想い

 昨日朝、特定社労士の受験資格を得るための特別研修を受けるため、名古屋市熱田区にある県会の会館に着いたとき、妹から電話があり、豊田厚生病院に入院している母の病状が悪化した旨の連絡を受けた。この研修は、15分以上の遅刻や早退があると、それだけで11日間63時間以上の受講はふいになり、受験自体ができなくなる取り決めで、自分の置かれた環境を考えると、「来年受験」、ということにはできないので、研修終了後急ぎ病院に駆けつけた。

 92歳の母は、肺がん末期と言われているが、看護婦さんの説明だと、下血し、血圧が70に下がり、「もう一度下血があると、何があってもおかしくない状態」、との説明を受けた。心電図を詰め所に送る装置もあり、それを進められたので、できることは何でもやってほしい心境で、それだけは独断で即決し、帰ってきたが、同居している弟の嫁がその後行ったときには、再度下血があり、弟の嫁は病院に泊まったとのこと。

 母の父は、90歳半ばを越えてからも、姿勢がよく、元気であったので、女性である母は、もっと長生きするものと期待をしていたが、ここまで来ると、楽観できない状況となった。母の最初の夫(私の実父)は、昭和19年8月9日に小笠原諸島方面で、軍艦が魚雷攻撃を受け沈没し、戦死している。当時松平の百姓屋から、長興寺町の農家の三男の呉服屋に嫁に来た母は、色々苦労しているので、自分の父のようには、健康が保てなかったように感じる。

 当時のことで、実家の勧めに逆らえず、言われるままに再婚し、職業婦人としての経歴も随分長い。小学校の代用教員、トヨタ自動車、大豊工業等に勤め、その後、夫の兄が千代田生命の支部長をしていた関係で、生命保険の外務員を長く務めた。豊田の市役所等に入り、相当の成果を挙げたようだが、ノルマとの関係で、無理をするので、「辞めた方が良い」と何度も勧めたが、一度やり出したらやり遂げたい性格で、夫が脱サラ(一力氷問屋開業)するまで、続けた。開業後も、女性にとっては相当の力仕事で、腰に負担のかかる姿勢を強いられる仕事であったが、父が急性白血病で急死してからも、弟と一緒に暫くは続けていた。これが体には一番響いたのではないかと推測する。

 昨日、妹が、看病していたときには、「来年桜を見たい」、とか「兄弟仲良くしてやっていけ」とか言い出したので、妹は、このまま死んでしまうのではないかを心配になったようだ。私が看病していたときは、「今何処にいる」、とか「元気か、元気が何よりだ」、「脚がだるい」とか行っていた。暫く脚を持ち上げていたが、長く続かないので、看護婦さんの勧めで、用具を使ってもらったが、その後の状況を聴くと、手も脚もだるさを訴え、疲れが蓄積してきているようだ。

 大事な夫に、2度まで先立たれ、色々苦労はしたが、家を守り、子供3人を育て、もしこのまま亡くなったとしても、大往生であったと褒めてやりたい心境だ。色々小さかったときのことを思い出すが、私は、母の愛情なくして、ここまで育たなかったと感謝の気持ちで一杯だ。

posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 21:37| Comment(0) | 16 ふりかえり