2013年06月01日

日本の古典

 ここ2週間ほどの間に、時間を見付けては、母の遺した日本の古典を読んだ。対談、解説付きの現代語訳である。高校時代のテキストでは、原文に近いものを読んでいると思うが、ごく一部分の抜粋である。全文を読むと、新たな発見があり、有意義であった。10代後半から20代前半には、亀井勝一郎の「愛の無常について」などを、「無常」に抗する気持ちから、よく読んだ。また、小林秀雄の文章は、ます調、だ・である調が混ざっていても上手く表現されており、熟読し、感心したものだ。

 今回読んだものは、好色五人女、徒然草、方丈記である。時代順で言えば、逆であるが、単に読んだ順に標記した。随筆の好きな私が、どうして、枕草子(勿論、この本もある)ではなく「好色五人女」を選んだのかは良く分からない。五人と言うが、私は、「お夏清十郎」と「八百屋お七」程度しか知らないので選んだのかもしれないし、命を懸けるまでに愛することができるのはどんな場合かをこの物語で確認したかったのかもしれない。

 方丈記は、1212年(作者58歳頃)に書かれており、鴨長明の人生観が述べられ、随筆というより一種の評論文になっている。彼は、1155年に生まれ、翌年には保元の乱が勃発しており、王朝から中世への変革期に生き、戦乱の相継ぐ時代で、度重なる大火、飢饉、大地震など大きな天災地変があった。無常のこの世をいかに生きるべきかが、作者の自問自答を通じて語られている。

 徒然草は、1330年(作者47〜48歳頃)頃に書かれているようである。吉田兼好は、人間に興味を持ち、生きている人間そのものをしかと把握していたように思える。登場人物を非難したり、批評しているのだが、不思議と悪い後味が残らない。結局、人間の様々な性癖や行動をそれなりに肯定し、人間の愚かさを暖かく見守る心の持ち主(こと女性となると別)であったように感じる。常に物が見えている、人間が見えている人物であったと感心する。

 しかし、彼らの人生観からしたら、現在私のしている仕事は、意味のないつまらないものになってしまう。時代の違い、主人公である人そのものの平均寿命も相当に違うので、彼らの人生観は、参考程度に位置付けておかないと頭の整理ができなくなってしまう。

 私は、現在社会保険の法律の解釈について、障害者の代表という気概で、国と争っている。私は一人であり、心身ともに健康でなければこの裁判には勝てない。小泉元首相が、ある女性のための会合で、「女性は元気の元である」といった意味の発言をされたことがあるが、私も、これは、一面の真理であると思っている。創造の世界だけでも元気が出て、免疫力が高まるそうだ。私も、心の奥底に、そんな気持ちがあって、好色五人女を選んだのかもしれない。

 また、徒然草の「女は髪のめでたからんこそ」には、ほんとうに愛欲執着の道は、その根が深く遠い。六塵によりひき起こされる欲望は多いけれど、その気になればすべて厭い離れることができる。しかし、その中に一つ、あの色欲の迷いのどうにもしがたいことだけは、老いも若きも、知恵ある者も愚かな者も変わるところがないと見える。だから、女の髪をよって作った綱には大象でもつながれてしまい、女のはいた足駄で作った笛には妻恋う秋の鹿が必ず寄って来ると言い伝えられるわけだ。ほんとうに自ら戒め、恐れつつしまなければならぬのは、この迷いではある、とある。
posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 07:18| Comment(0) | 11 所感
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: