10月24日(水)午後10時25分、つい先日まで冗談を言っていた母が亡くなった。大正9年4月25日生まれだから、きっかり丁度92歳と半年である。妹が、お兄さんだよ、分かる!?と聴いたとき、「分かり過ぎるわ」といっていたのが、確かな記憶の最後だった。当日は、私の泊まり看病の当番日で、常よりも息が荒く、おでこの温度が少し下がっているように感じたので、看護婦さんと意見が合い、弟と妹を呼んだ。二人ともまだ意識のある内に駆けつけ、母も安心したことだろうと思う。
同居の弟が喪主だから、特定社労士の特別研修を受けている私としては、通夜と葬儀の日程が気になったが、偶然、書道の会場芸術もやっている弟の展覧会が、10月26日(金)〜10月28(日)まであり、私の不都合(27日(土)が特別研修の8日目)と重なった。幸運にも、通夜28日(日)、葬儀29日(月)と話しがまとまり、研修も、本試験も受験できる環境が出来上がった。お寺さんが持参した法要の日程も、最近では七日七日の法要は割愛するそうで、次の三十五日も11月27日(火)だそうで、特定社労士の本試験も終り、前後に重要な予定の入っている私としては、奇跡に等しい巡り会わせだ。次の日は、妹の旦那が不都合日で、またまた偶然の幸運が重なった。これも、見えない母の導きと感謝している。
私の方は、小学生の曾孫が3人いるが、その内の小3と小6の2人は、学校を休んででも葬儀に参列したいと言う。親の反応を見ていたら、二人とも学校を休むことを許したようで、葬儀に出るという。最近では、初七日をその日の内に行うので、母の兄弟姉妹と接する機会に恵まれ、貴重な体験をしたことになる。母の兄弟姉妹は、男4人、女4人で、その子供たちも色々特徴のある人がいるので、学校では得られないものを得たであろうと思っている。
昨年の丁度今頃、母は、西尾に住む妹の家に1週間ほど泊まった。そのときに咲いていたポインセチアが上手く描けていたので、妹が母に名前を書くように勧めた。最初は遠慮していた母は、妹が何度も進めるので、名前を書くことを決め、「それじゃー英語で書くか」といって書き終えた。これが遺品になってしまった。母より年長と思える男性が、「同級会をするので出てほしい」と家に来たこともあり、私も、一時は、将来は教員をしたい、と思ったこともある。苦労を重ねてきた人生で、しかも、一番大事な人を2度まで、先に送っている。しかし、時々において仕合せを感じ、大満足の一生であったと回顧する。そして、晩年近くは、穏やかな生活を送れたように感じる。
私は、私にしかできない重大な仕事を請けているので、何時までも哀しんでばかりはおられない。特に大きな仕事では、国(厚生労働省)や日本年金機構を説得しなければならない。公的年金の歴史上、時効を理由にした障害年金の受給権の侵害の事実を指摘したのは、私一人である。誤った考え方により40年以上運営されてきたことは、内容が内容であるだけに、大変なことであるが、正しい考え方を広め、それを当り前の考え方にするのは、私に課せられた重大な使命であると感じている。
2012年10月31日
母の死
posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 19:57| Comment(0)
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