2012年10月21日

母の想い

 昨日朝、特定社労士の受験資格を得るための特別研修を受けるため、名古屋市熱田区にある県会の会館に着いたとき、妹から電話があり、豊田厚生病院に入院している母の病状が悪化した旨の連絡を受けた。この研修は、15分以上の遅刻や早退があると、それだけで11日間63時間以上の受講はふいになり、受験自体ができなくなる取り決めで、自分の置かれた環境を考えると、「来年受験」、ということにはできないので、研修終了後急ぎ病院に駆けつけた。

 92歳の母は、肺がん末期と言われているが、看護婦さんの説明だと、下血し、血圧が70に下がり、「もう一度下血があると、何があってもおかしくない状態」、との説明を受けた。心電図を詰め所に送る装置もあり、それを進められたので、できることは何でもやってほしい心境で、それだけは独断で即決し、帰ってきたが、同居している弟の嫁がその後行ったときには、再度下血があり、弟の嫁は病院に泊まったとのこと。

 母の父は、90歳半ばを越えてからも、姿勢がよく、元気であったので、女性である母は、もっと長生きするものと期待をしていたが、ここまで来ると、楽観できない状況となった。母の最初の夫(私の実父)は、昭和19年8月9日に小笠原諸島方面で、軍艦が魚雷攻撃を受け沈没し、戦死している。当時松平の百姓屋から、長興寺町の農家の三男の呉服屋に嫁に来た母は、色々苦労しているので、自分の父のようには、健康が保てなかったように感じる。

 当時のことで、実家の勧めに逆らえず、言われるままに再婚し、職業婦人としての経歴も随分長い。小学校の代用教員、トヨタ自動車、大豊工業等に勤め、その後、夫の兄が千代田生命の支部長をしていた関係で、生命保険の外務員を長く務めた。豊田の市役所等に入り、相当の成果を挙げたようだが、ノルマとの関係で、無理をするので、「辞めた方が良い」と何度も勧めたが、一度やり出したらやり遂げたい性格で、夫が脱サラ(一力氷問屋開業)するまで、続けた。開業後も、女性にとっては相当の力仕事で、腰に負担のかかる姿勢を強いられる仕事であったが、父が急性白血病で急死してからも、弟と一緒に暫くは続けていた。これが体には一番響いたのではないかと推測する。

 昨日、妹が、看病していたときには、「来年桜を見たい」、とか「兄弟仲良くしてやっていけ」とか言い出したので、妹は、このまま死んでしまうのではないかを心配になったようだ。私が看病していたときは、「今何処にいる」、とか「元気か、元気が何よりだ」、「脚がだるい」とか行っていた。暫く脚を持ち上げていたが、長く続かないので、看護婦さんの勧めで、用具を使ってもらったが、その後の状況を聴くと、手も脚もだるさを訴え、疲れが蓄積してきているようだ。

 大事な夫に、2度まで先立たれ、色々苦労はしたが、家を守り、子供3人を育て、もしこのまま亡くなったとしても、大往生であったと褒めてやりたい心境だ。色々小さかったときのことを思い出すが、私は、母の愛情なくして、ここまで育たなかったと感謝の気持ちで一杯だ。

posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 21:37| Comment(0) | 16 ふりかえり
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