2020年10月24日
信用ならない最高裁判例
私は、今の今まで、裁判における最高裁判例には、ほとんど間違いはないものと信じ切っていた。
しかし、平成29年10月17日判決の身体(左下腿切断)の障害に係る44号判決(民集第71巻8号1501頁)をよくよく読むと、過去の最高裁判例(有名な判決である平成7年11月7日本村年金訴訟判決 高裁第三小法廷(民集第49巻9号1829頁))からの引用(「裁定は、確認行為にすぎない」)が、重要な部分で誤っていることが判明した。
この判決に対しては、過去の最高裁判例(著明判例 本村年金訴訟判判例)を改変引用しているとして訴追請求状が出されていることは既に何度も紹介しているところであるが、その根拠を発見したような事態を目の当たりにしたのである。
訴追請求状では、両最高裁判決の判旨を真逆にしていることを指摘しているが、今回の発見は、その理由としている部分の引用自体が改変引用であったということである。
44号判決は、212号判決が、裁定前には「支給されない」と判示しているので、その事実までは否定していない。
従って、現在においても、212号判決と44号判決は、整合性が保たれていなければならないこととなる。
具体的に、212号判決の「支給」について、これをそのまま、「支給」=「行使」と認めれば必然的に、「裁定前に時効消滅することはない」こととなる。
しかし、国やほとんどの裁判所の判断では、「支給」 ≠ 「行使」の関係としている。従って、基本権に対する権利不行使を支分権に対する権利不行使に結び付けなければならないのですが、以下の条件を全て満たすので、基本権に対する権利不行使を支分権に対する権利不行使とみなせるという論旨です。
44号判決が挙げる条件は、以下の3つですが、その全てが満たされていないので、私が問題としているのです。 @ 発生要件等の規定が明確である、A 裁定は確認行為にすぎない、B 裁定請求さえすれば支給は受けられる、です。
私は、今まで、212判決でも「裁定は、確認行為にすぎない」という表現がずばりそのまま使われていると思いこんでいたのですが、212号判決文を確認したところ、そのようには言っていないのです。
212号判決においては、「画一公平な処理により無用の紛争を防止し、給付の確実性を担保するため、その権利の発生要件の存否や金額等につき同長官が公権的に確認するのが相当であるとの見地から、基本権たる受給権について、同長官による裁定を受けて初めて年金の支給が可能となる旨を明らかにしたものである。」とは述べているが、「確認行為にすぎない」とは判示していないのです。しかも、その目的は、給付の確実性を担保するためです。
「すぎない」というのは、確認以外の意味をなさない、ということであり、明らかに、裁定の裁量権を否定している。一方、「確認するのが相当である」というのは、確認することが必要であるといっており、確認に裁量権のあることを否定いていない。この違いは明らかである。
国が、似て非なる表現で用いたものが、裁判所においても使われるようになってしまったと思われるが、これは、212判決の判旨とは異なっており、その判旨からは、はみ出た部分で、独り歩きを始めた主張となっています。
しかも、212号判決最高裁判例解説(脚注F 939頁〜941頁)によると、確認行為型の行政処分にも、「既に発生している権利等に変動を及ぼす」ことができる機能が存在します。しかも、212号判決は、通算老齢年金に係る記述です。
posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 11:03| Comment(1)
| 1 障害年金
年金受給権もこの法理に支配されています。
そこで、「確認行為にすぎない」や「確認するのが相当である」という文言ですが、言葉の綾に過ぎず、いずれであっても「確認行為」であることには間違いのないところです。
そこで、年金上の確認行為の法的意義ですが、「裁定請求」が「申込」に当たり、それを受けて厚生労働大臣がする「裁定」というところの「応諾」に相当すると解すべきことになります。
従って、「確認行為にすぎない」や「確認するのが相当である」と表現したとしても、「同長官による裁定を受けて初めて年金の支給が可能となる旨を明らかにしたものである。」ことには何らの変わりがないことになります。
「確認行為にすぎない」などといって、紛れを求めた表現に左右されない(騙されない)様に、掘り下げた反論すべきではないでしょうか。