2016年05月07日

勝訴と正義との関係

裁判において、勝訴が正義であるとは必ずしも言えない。なぜかというと、裁判官は、原告又は被告の言い分の内、法律に照らし法律的に正しいと思われる(裁判官がそのような心証を抱いた)方に軍配を下すからである。

今一つ原因がある。それは本来あってはならないことであるが、裁判所も国の機関であるので、最高裁判所及び最高裁事務総局の意向(人事による間接統制、実は、その意向自体を各裁判官が誤解している節もある)に沿った判決を出す裁判官が7〜8割を占めるというのが瀬木比呂志氏の見解(「絶望の裁判所及びニッポン裁判」参照)である。

上記の書籍には、このような傾向は、刑事訴訟、原発裁判、及び行政訴訟に多く現れていると書かれている。困ったことに、私が問題にしている「障害年金支分権の消滅時効の運用の違法を追及している事件は、この三大元凶に含まれる」のである。

私が、裁判をしてまで、国の運用改正又は法改正を目指しているのは、この権利が障害者にとってなくてはならない重要な権利であるからであり、かつ、最も遵法精神を発揮しなければならない国が自ら違法行為をしているからである。

このように、本来あってはならない事柄であるが、多くのマスコミは、この問題を積極的に取りあげようとはしない。なぜかというと、対象者がマスコミから見た場合少ないからである。

しかし、このような国による違法行為は、対象者の多い少ないからといって軽視されていいものではない。大きな原因が一つかというとそうではない。この問題は本来単純な問題であるが、国が屁理屈を述べ問題を複雑にしているので、問題の本質が分からない人が多すぎるのである。

この問題について、一番よく理解しているのは保険者(但し、一定の地位にある責任者等少人数と思われる)であり、社会保険に関する不服申立てを専門に取扱う社会保険審査会であると思われる。しかし、保険者は保険金を支払う金額を少しでも少なくしたい意向が強く、また、45年間以上も誤った運用をして来たので、これを認めたくない立場にある。また、社会保険審査会は、裁定前の支分権の消滅時効は進行する筈がないこと自体を認めながら、この国の運用を、「特別の法律に基づかない行政措置」であるとして容認しているのである。

行政庁(厚生労働大臣)に、このような特別の法律に基づかない行政措置により個人の権利として確定した支分権を、公共の福祉に供する目的以外で制限することは許されておらず、この行為は越権行為である。まして、社会保険審査会に、そのような行為を容認する権限はないが、これが現実に行われているというのが、法治国家を標榜する我が国の実態である。これでは、行政の暴走というより表現のしようがなく、これを、弁護士も裁判所も止められないというのだから何とも情けないことである。

私は、2〜3割と言われている、専ら良心に従った判決を下す裁判官が、このような国の醜態を改善してくれるものと思っているが、現状、時間がかかり過ぎているというのが実感である。

全国、あちこちの弁護士がこの問題にも挑戦しているので、是非、法解釈誤りという一般論においても、勝訴の実績を作ってほしいと思っているが、未だ、そのような情報は入らない。

そうであれば、私自身がその実績を作るより仕方ない。その意味において、直近の事件では、 神戸の事件の位置付けは大きい。これは、来る5月17日に、第4回期日を迎える。この時は、ラウンド法廷で1時間が予定されているので、今までにない展開をある程度裁判所にも 期待しているところである。

次に私自身が法廷に立つのは、名古屋地方裁判所である。この事件は、成年後見制度を利用して、私が法定代理人保佐人に就職している事件である。保佐人は、当然には本人訴訟ができる立場にないのであるが、保佐人就職時に、この訴訟についても代理権付与申立てをしており、それが認められているので私が直接法廷に立つことができるのである。

私は弁護士ではないので、厚生労働大臣への異議申し立て(今年4月1日改正行政不服審査法審査法による「審査請求」)は、多数受任していいるが、このような裁判により自身の考え方を主張できる機会は 多くあるものではなく、この機会を最大限に活用したく思っている。

実は、この神戸の事件の乙号証として、被告は7つの国が勝訴した高裁判決を提出しているが、この中で、法解釈を職責とする高等裁判所としては、読んでいる私が恥ずかしくなるようなお粗末な判決理由が散見され、是非とも読者にお伝えしなければならないところであるが、長くなるのでその内容は次回以降に譲る。

国は、次のような司法の仕組みを悪用して、何時までも、屁理屈を続けているのである。

民事訴訟においては、判決理由の中における判断には、既判力が生じない(民訴法第114条1項)。従って、最高裁の定着した著名判例も、その理由部分は、既判力が及ばず、次回以降で紹介する恥かしくなるような高裁の判決理由も既判力が及ばないので、国も裁判所も言いたい放題である。
posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 13:52| Comment(1) | 1 障害年金
この記事へのコメント
何事も、おかしいなと思っても打開の糸口が掴めない時には、原理・原則に立ち返って見直すという手法が用いられます。
この観点からすると、年金の消滅時効の起算点として、「障害認定日」は、本来、適切な時点といえるか。「障害認定日」は相応しくないのではないか…という切り崩し方で迫る方法もあります。
このような展開は未だ見受けられませんが、以下に述べます。参考にしてみて下さい。
「障害認定日」は障害の状態が固定的であると見なす日であり、その日を以て障害等級を確認・確定する基準とする日です。この日を障害の生じた日であると擬制する(障害であるとみなす)日ですから、実際にこの日に障害を負ったか否かに関係ない日であるわけです。この日の1年6ヶ月の初診日から人為的に割り出される日に過ぎません。
「初診日」も、障害者の病歴をたどった時に、初診日証明書が取れたら特定する日であり、証明が取れなかったら、別の取れる日にズレしてしまう特性を帯びた、いわば浮動性のある日です。
民法が規定している消滅時効の起算日は「時効の効力は、その起算日にさかのぼる。」(144条)、従って、いかなる理由が生じようとも、起算日より遡れない日であり、「権利の行使が可能な時から進行する」(166条1項)であり、従って、権利が可能な日は浮動的に揺れ動く日ではなく、障害を負ってから裁定によって年金受給権の発生する日に至るまでの間に存在する法的効果または事実となる「唯一時点」にあるものです。「障害認定日」という浮動性が高く人為的な日は、根源的に、消滅時効の起算日とするには相応しくない日です。…ね。
Posted by hi-szk at 2016年05月12日 11:08
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