本日は、先週紹介した「絶望の裁判所」の姉妹書である「ニッポンの裁判」を紹介するに止める。「止める」としたのは、私はこの本を昨日借りてきて、まだ1/4程度しか読んでいないからである。
従って、主に「はしがき」からの紹介になるが、興味のある方には、是非とも読んでいただきたい書物である。
「絶望の裁判所」(以下「絶望」という)は、制度批判の書物であったのに対し、本書は、裁判批判を内容とする。つまり、両者は、内容は関連しているが、独立した書物である。最も、双方の書物を読むことで、より立体的な理解が可能になることは間違いがない。その趣旨から、本書では、前記のとおり、絶望を適宜引用している。
より具体的に述べよう。「絶望」は、もっぱら裁判所、裁判官制度と裁判官集団の官僚的、役人的な意識のあり方を批判、分析した書物であり、裁判については、制度的な側面からラフスケッチを行ったにすぎなかった。これに対し、本書は、そのような裁判所、裁判官によって生み出される裁判のあり方とその問題点について、具体的な例を挙げながら、できる限り分かりやすく、論じてゆく。
裁判所、裁判官が、国民、市民と接する場面はまずは各種の訴訟であり、その結果は、判決 、決定等の裁判、あるいは和解として実り、人々を、つまりあなたを拘束する。その意味では、 裁判や和解の内容こそ国民、市民にとって最も重要なのであり、制度や裁判官のあり方は、 その背景として意味を持つに過ぎない。
しかし、裁判の内容を正確に理解するのは、それほどやさしいことではない。法学部や法科大学院の学生たちにとってさえ、最初のうちはそうである。私が、裁判の分析に先行して、まずは、誰にとってもその形が見えやすくその意味が理解しやすい制度の分析を行ったのは、 そうしておかないと裁判の内容の理解も難しいからということが大きい。
そして、日本の裁判の内容は、実は、一般市民が考えている以上に問題が大きいものなのだ。 そのことは、弁護士を含む法律実務家(以下、本書では、この意味で、「実務」、「実務家」という言葉を用いる)にも、あるいは十分に理解されていないかもしれない。学者も、それぞれの専門分野のことはよく知っていても、全体を見渡す視点まで備えているとは限らない。ましてや、メディア、ことにマスメディアの司法や裁判に対する理解は、本書でも述べるが、一般的には、かなり浅いのが普通だ。
以上のような意味では、おそらく、日本の裁判全体の包括的、総合的、構造的な分析も、これまでに行われたことはあまりなかったのであり、本書の内容に驚愕され、裁判に対する認識を改められる読者は多いはずである。
以上が「はしがき」の一部であるが、読んでみる気になられたでしょうか。重要な判例等に関して、分かり易く解説されるので、日本の裁判実態がより深く・広く理解されるものと楽しみにしているが、私の一番の関心事にどれくらい触れられているかはまだ分からない。
「絶望」や本書により、行政訴訟に関して、政府寄りの判決が多い理由は、よく分かったし、一部の裁判官については、環境に左右されず、良心に従った判決を出していることも分かった。
一部、 本文についても内容を引用する。
裁判官の判断は積み上げなのか直感なのか? FBI心理分析官による分析との共通性(20頁)
裁判の中身は、訴訟当事者(以下、単に「当事者」という。それには、当事者本人を指す場合と、弁護士をも含めてめていう場合とがある)の主張、すなわち「事実」、そして、裁判官の判断、すなわち、結論である「主文」とその根拠を示す「理由」とから成り立っている。理由の中身は、事実認定と法的判断からなる。事実認定とは、当事者の主張する事実があったかなかったか、事実関係に関する双方の言い分のいずれが正しいかということであり、法的判断とは、認定された事実を法律に当てはめるとどうなるかということである。
事実審の判決では、圧倒的に重要なのは事実認定であり、法律上の論点が先鋭な問題になるケースは稀であるといってよい。ロークラーク(アメリカにおける裁判官の補佐官、ロースクールを優秀な成績で卒業した人々が付く。「絶望」31頁、226頁)や弁護士等の経験があることが多いアメリカの学者と異なり、日本の学者の多くはこのことを必ずしも十分に理解していないため、判例における事実認定の分析が甘くなりがちである。(なお、判例とは、判例集や判例・法律雑誌掲載により先例としての一定の価値が認められた裁判のことである)。
さて、裁判官の判断過程についてリアリズムで考えてみよう。裁判官の判断、判決に記されているように、個々の証拠を検討して、あるいはいくつかの証拠を総合評価して断片的な 事実を固めた上でそれらの事実を総合し再構成して、事実認定を行い、それを法律に当てはめて結論を出しているのだろうか? それとも、そのような積み上げ方式によってではなく、 ある種の総合的直感に基づいて結論を出しているのだろうか?
ここは考え方が分かれるところだが、私は後者であると考えており、裁判官、元裁判官にもこの考え方は多いはずである。学者では、戦後の民法学、法社会学、ことに後者についての代表的存在であった川島武宜教授(東京大学)がはっきりとこちらの考え方をとっている(川島武宜著作集 岩波新書 第5巻279頁以下)。
つまり、裁判官は、主張と証拠を総合して得た直感によって結論を決めているのであり、判決に表現されている前記のような思考経過は、後付けの検証、説明にすぎない。以下割愛。
前々から川島教授がこのような考えを採られていたことは承知しており、多くの裁判官がこの手法を用いているのも、仕方ないことと思っていたが、ここで言う、「後付けの検証、説明」までが、明らかに最高裁の判例の判旨に反したり、被告等の主張自体にないことであったり、論理矛盾や論理に飛躍のあるものであることは、幾ら行政訴訟においてでさえ許されることではない。
2015年08月22日
ニッポンの裁判
posted by 326261(身にロクに無い:身に付いていない:電話番号!!) at 13:29| Comment(0)
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