
この本の著者は、私よりは一回りも若い優秀な大学教授である瀬木比呂志氏である。どのくらい優秀かと言えば 東大法学部在学中に司法試験に合格し、1979年以降裁判官として東京地裁 最高裁等に勤務し、アメリカ留学もしてみえ、現在、明治大学法科大学院の専任教授をされてみえる。法律に関する著書も多いが、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)と映画、漫画についても専門職に準じて詳しいとある。
この著書によれば、「裁判所内の組織は、霞が関の官僚と同様に、日本的なピラミッド型ヒエラルキーによって操縦されている」とある。
まず、この書籍の一部「裁判所の官僚化の歴史とその完成」を引用する。
「日本の裁判所の組織は、これまでに論じてきたとおり本来民主的なものとはいえないが、 戦後は、それなりに新しい方向が模索された時期もあり、一時は、リベラル派の裁判官が最高裁の多数派を占めたこともあった。
ところが、最高裁判決のリベラル化、ことに公務員の争議行為を刑罰から解放する方向の判決が出たことに大きな危機意識を抱いた自民党は、右翼的な考え方の持ち主である石田和外氏を最高裁長官に据えた。石田長官(第5代長官1969〜1973)は、自民党の思惑どおり、当時の最高裁判所における多数派であったリベラル派を一掃する人事を行い、また、ブルーバージを推進した。
そして、石田長官に始まる最高裁の右傾化、保守化を完成させたのが、この書物でも何度も名前が出ている矢口洪一第11代長官である。
しかし、矢口体制(1985〜1990)が終わった後、こうした動きは一段落した。言い換えれば、 その後、約20年間の間に、裁判所には、いくらでも軌道修正の機会があった。しかし、そのような試みは何ら行われることなく、裁判員制度導入決定後はむしろ支配、統制が強化され、 竹ア博允体制(第17台2008〜2014)の下では、再び、一枚岩の最高裁支配、事務総局支配、上命下服、上意下達システムが、すっかり固められてしまった。
また、石田長官の時代以降に左派裁判官の排除に始まった広義の意思統制・異分子排除システムも、竹ア体制においてその完成をみたといってよいと思われる。」
とは言うものの、著者は、文字どおり、良心に従い自分の心に正直な判断をされるリベラル派の裁判官の居ることをも認めつつ大勢として述べておられる。
ここで現実の話に戻すが、先週も触れた平成26年6月17日の名古屋高裁の判決は、私の見る限り、この体制が物を言っており、これを覆すことは容易でないことが伺える。これでは、日本は、法治国家でなくなってしまう。
私は、最近受任弁護士に対しても不満を持ち出した。福岡の事件の弁護士T.Y先生は、人格者であり、姿勢、努力とも満足し、機会があれば、再度一緒に仕事をしたく思っているが、最近判決のあった金沢地裁の事件については、原告本人の体調不良もあったのだが、相談・指導業務として、私が受任しているにもかかわらず、私の知らない所で敗訴確定しているのである。
しかも、判決理由をみると、昔ながらの、ありきたりの判決理由で、このような事を何度も 言わせてはならないのだが、これを許すような主張しかしていないことになる。原告の準備書面(案)については、私なりの意見を添えて原告を通して受任弁護士に送っているが、私との直接の議論を避けて、連絡要請にも応えない独断の結果である。この事件については、当初私が本人訴訟支援をしていたのだが、原告本人が入院してしまい、法廷に出廷できなくなってしまったので、現在会社を経営している原告の顧問先弁護士の若手弁護士が引き継いだのだが、同じ過ちを繰り返す結果になってしまった。
聞くところによると、「最近、凄く保守的な裁判官が赴任してきて、金沢では、年金訴訟は争わない方がよい状況である。」とのことであったが、判決文を読むと、決してそのようには感じられない。寧ろ、主張をよく聴いてくれていると思える。
例え、結論ありきの判決であっても、先週も紹介したような、無理な判決理由、『裁定前の支分権が「・・・、裁定を経ていない支分権が抽象的な権利にとどまるとはいえない。」』を、引き出す程度まではやってほしかったが、私の期待は空振りであった。
新しい問題については、自分の思うとおりにやってみたいという弁護士先生の気持ちも分かるが、目の前に、実際に勝訴している経験者がおり、国の主張内容を熟知している協力者がいるのに利用しようとは思わない。受給権者の権利の実現を考えたら、総力で当たるべきは当然のことと思うがいかがなものであろうか。
タグ:裁判員制度
「債権金額」と「履行期日」が確定しないと「債権」は成立しませんね。
年金債権の場合では、裁定によって「障害等級」と「支分権の初月」が決まって初めて債権として成立します。
障害等級を政令で示しているからといっても、単に、メニューであって、裁定を受けるまで具体的には確定しません。債権額が決まっていない局面にあるということです。
また、第一回目の支分権の終年月は裁定直後の奇数月となりますから、その翌月が履行月となります。履行月が決まっていなければ、支払い義務は生じません。
従って、この両方が確定しないと支分権は成立しません。
もともと、債権債務の法律関係に「抽象的な債権」といった概念を取り入れること自体が、無理があります。有るか無いかの二者択一の法律関係です。
いかがでしょうか。
「支分権の初月」→「支分権の終月」に訂正です。
国民年金法18条3項では「年金給付は、毎年二月、四月、六月、八月、十月及び十二月の六期に、それぞれの前月までの分を支払う。…」と「前月までの分」が、偶数月に支払われますから、支分権の終月は直前の「奇数月」になります。
裁定されて初めて、支分権の履行年月(の末日)が確定されるとの考えです。
おかしな主張に対しては、具体的で丁寧な反論が必要だと思います。